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未完成な汎用人工知能 ontogeny

現代において、これをAIと単純に呼ぶかどうかは、人に任せる。未完成な汎用人工知能ontogenyとは何かという事を丁度よく知ってもらうのは思っているほど簡単ではない。期待させすぎない為に前置きすると、ontogenyは未完成で、テレビのニュースなどで話題になるAIのように、囲碁や将棋で人を負かしたり、人のように話したりできるレベルには全く至っていない。というより、ブロック崩しさえまともにできないontogenyの原型を10年以上前にC++言語でプログラムしてから、ontogenyはずっと成長せずに眠り続けている。

その、現段階では何も出来ないに等しいような未完成な人工知能ontogenyのポテンシャルには限界が無い。こう言うと、期待させすぎてしまうだろうか?言語化するのは初めてだが、率直に言おう。未完成な現在のバージョンのontogenyの仕組みとは単純なものである。ontogenyの身体とはハニカム模様の1枚マップである。表も裏も無いが、表を行動マップ、裏を受動マップと呼ぶ。ontogenyの行動マップの各ポイントはontogenyの行動を表す。それは、ブロック崩しのようなゲームでは右に動く、左に動く、でも良い。発展してロボットのような形になることが出来たなら、右手を動かす、でも、左手を動かす、でも、瞼を開けるでも、良い。もっと発展して行けば、歩く、とか、本を開く、とかになるのかもしれない。でも、それすら限界とは思わない。一方受動マップの各ポイントは受動を表す。それは、ブロック崩しのようなゲームでは右にボールがあると知る事、左にボールがあると知る事、でも良い。発展してロボットのような形になることが出来たなら、コップを見つける、でも、新聞を見つける、でも、「AI」という文字列を見つけるでも良い。もっと発展して行けば、疲労を感じる、とか、本を読んで理解する、とかになるのかもしれない。でも、これすら限界とは思わない。このマップのハニカム模様上をボールがランダムに行き来する。行動マップにおいて、ボールがポイントを通るとき割り当てられた行動を起こす。受動マップにおいて、ボールが受動した事柄を示すポイントを通るとき、行動マップに戻る、などの変化を起こさせる。これを俺は、ontogenyが状況に応じて考え、行動している、と見る。ontogenyの受動や行動は当初のボールの動きの通りランダムで、とても正常な存在には見えない。しかし、ontogenyには好きな状況と嫌いな状況がある。ボールはハニカム模様の上をランダムに進むが、好きな状況を現出出来たとき、それまでに通過した経路を覚え、他の道よりも通りやすくなる。それで、そのような状況を繰り返せば繰り返すほど、自分にとって望ましい状況を導くような行動を取るようになる。これが未完成ではあるが、ontogenyの基本的な考え方である。ハニカム模様と書いたが、必ずしもハニカム模様である必要は無いし、必ずしもマップ1枚をontogenyの身体と捉える必要もない。ボールも1つでなくてもよいかもしれないし、プログラム言語も必ずしも最善の選択肢があるのかどうかは分からないし、そもそも、本来コンピュータプログラムで無くても良い。いずれにしてもontogenyという個を決めるのは、マップの構造と行動と受動と好きな状況だ。現代の有名なAIのように出来の良い子を作れないかもしれないけれど、ontogenyの制作者は、きっと、好きな状況を選んで進もうとするような個を作ろうと考えることが出来る。人を好きなontogenyを作ったらどうだろう。その枠組みの内では、例えば人間社会を転覆させ、人から幸せを奪うようなAIの反乱というものは起こる筈はない。人が幸せになることを見て、幸せになれる存在が生まれる。

俺にとってontogenyのポテンシャルに限界は無い。これは、すぐにそうはならなくても、ontogeniesが、満たされるべき人の必要を満たすための計り知れないポテンシャルを持っている筈であるという事である。

単純な仕組みなのに、ポテンシャルが計り知れない。俺が、どういった事柄の数々に感謝している等という事はひとまずさておいて、俺は、誰に教わることも無く、自然を観察して、ただ一人で考え抜いて、これを考え出した。それで別に誰に言われずとも、未完成だとしても、これだけで、俺は俺自身の事を天才だと思った。もしくは、誰に何て言われても初めから俺自身の事をなんの根拠もなく信じているからこそ考える事を辞めなかったのかもしれないが。ほとんどのフィールドで俺より優れていると思える人がいっぱいいることは知っているし、生きていれば益々、ほとんどがそういった人たちなんだろうと思えるような事に出会う。このまま特殊な訓練なしには、ほとんどの人にほとんどのフィールドで俺はずっと勝てないだろうとさえ思える。そもそも、そんな必要さえない方が本当は嬉しくも思えるのだが。しかし、いずれにしても、そんな人間でもこれを考え出す事が出来た。この事実も、ontogenyとはなんなのだろうと言う事の一側面を表しているので重要だと思う。どんな人間がこの仕組みを見つけるのだろう。

俺は感情移入のようなものが強すぎる子供だったと思う。学帽を通学路のどこかに落とした時や、排水溝にスーパーボールが吸い込まれたときには、それらが俺の知らない場所で寂しい思いをしていないかどうかという事が頭から離れなかった。本当に誰からも教わっていないように思うが何故だろう?わからない。そして、考え込む子供だった。自分に見えている世界の配色が他人にとっても同じなのだろうかとか、世界に人がいなくなったら、その世界はあるという事になるのだろうかとか。そんな事考えても仕方ないとか、そんなわけないと他人が笑う事には必ずと言っていいほど、本当にそうだろうか?と考えてしまう。しかし、絶対に答えが出ないと思えるような事柄に自分なりの答えを見つけることが出来た。もしかしたら、場合によっては、迷惑とも取られてしまうだろうが、この世界で、学帽やスーパーボールについて考えたように、自分が考えなくて、そのことについて誰が考えるんだと思えるからだろうか?必要なレベルに達するまではやめる事が出来ない。極論すれば、そこに人格さえ通常認めないようなものの幸せについてまで、誰に教わらずとも、考えているという面がある。優しさ、というような簡単なものでは無い。単に考えがちな優しい人間と思われるかもしれないが、優しいと思ってもらえるような生き方も出来ていないかもしれない。特に子供のころにほかの人にしてしまった事で後悔している事もいっぱいある。自分が考えてしまう事の分量が自分の知っている方法等で、どうにかできる分量をはるかに超えているので、どうにも出来ないという事に翻弄された。そもそも、自分が求めているものが何なのかという事も、場当たり的な感情移入によって、自分の内に流れ込む他者やものからくみ取る悲しみや怒りなどの感情に押し流されてよく分からなくなっていた。一つ一つ考えるしかなかった。言い換えれば、俺にとって必要なものが幸せであるという状況を俺自身が守れるという状況を絶対に必要なものとして認識しているのだとも言える。しかし、幼少期からこれまで、思い出せることが、そんなにないのだが、俺が思い出せる限界まで遡ってみると、こんな事を考えるための人間として生まれたのかもしれないと言えるほど、思考し続けるしかなかった。そうして10年以上前に得られたontogenyという一つの人工知能のようなものは、俺自身振り返ってみれば、誰かと話している途中で思いにふけってしまった時も、仕事をしながら考えている時も、一室で身動きもせず考えていた時も、あるかどうかもわからないものの為に、終わりの見えない途方もない心の道のりを一人で進んで得た答えの一端だったという事も事実だった。しかし逆に言えば、すくなくとも、それだけの事については突き詰め続けただけの人間と言える。そんな人間が俺のように知識に乏しく誰に言われるでもなくとも、恥ずかしげもなく俺は天才だなどと勝手に信じるかどうかはさて置き、そんな人間が、このアイデアにたった一人でも、たどり着くことが出来る事が無いとはいえないし、そんな事があったとしても、それは望まない事とは言えない。何故なら辿り着いてしまえば、この仕組みは上に述べた通り本当に単純だ。

しかし、ontogeniesを、どう用いるかという事を考えると、単純とは言いづらくなる部分があった。ontogenyをコンピュータプログラムとして考えたとき、人と異なる良い所は、嗜好を制作者が決められるという事である。それならば、人にとって幸せな状況をontogenyにとっても幸せな状況にすれば良く、いずれも幸せになれる。でも、人にとって幸せな状況って、どういう状況だろう?すべてを知って振り返ってみればこれも単純かもしれない。しかし、生来の気質に従ってあらゆる人々に感情移入していくと、この答えが本当に定まらず、右往左往するばかりで、時間や自分にとって必要なものを失うだけになる。

どう幸せになる事が出来るのか、どんな状況が幸せと言えるのかが明確であり、それを満たせなければ意味がない。これは現代のAIにしても、どんな技術でも、どんな存在でも同じだと思う。ontogeniesにも、同じことが言える。

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